第十堰ってどんなところ?
1月24日(土)第10回水辺の教室
「第十堰って・・・?」~歩く、遊ぶ、知る、第十堰探検!~
2009年初の水辺の教室。
風邪が大流行しているようで、子どもたちもスタッフもいつより少なめ。
でも、お天気は大変よくポカポカ日和。元気に第十堰を探検しに行こう!
集まった子どもたちは久々の再会からか、なんだかそわそわしていて落ち着かない。いや、エネルギーが有り余っているのかもしれない。前置きなんていらないから、とにかく外へでかけたい!といった感じだ。
今回は今からおよそ257年前に造られた第十堰をみんなで探検する。
まず子どもたちに、「第十堰ってどんなところ?」と聞いてみた。おうちの人に聞いたり、調べたことを発表してくれる子もいたが、第十堰のことよく知らない・・・という子が多かった。
地図を出して第十堰の全体図を眺めてみる。実はこの水辺の教室では4月に北岸で生き物探しとカヌー、7月にキャンプ、8月は堰下でかんどり舟や投網・たて網の体験、9月も北岸で遊んでいる。でも、この第十堰はなぜここに、そして誰がどうやって造ったのか、みんなが知らないことはまだまだいっぱい。ということで検証(探検)しに行くことに!
まずは波止先へ
第5回にカヌーやかんどり舟を出した場所だ。
ここはかつて船着場であり、洗濯場であり、交流の場でもあったそうだ。今も何隻かの舟がつながれている。水の流れは上流から第十堰を通過しここにぶつかるため、この波止先は護岸を守る水制としての役割を担っている。また、第十堰下のこの場所は汽水域で、スズキやキビレ、チヌ、テトラポットの穴の中には、ウナギや手長えび等の魚たちがたくさん潜んでいる。
よく見ると、堤防に階段のようなものがあった。でも階段にしては少し段差も幅も狭い。実は階段状に造られた水尺なのだ。わりと新しそうな水尺の隣に、昔の水尺を発見。かすかにメモリのようなものが記されていた。
お次は第十堰南岸へ
この時期は水量が少なく、堰の上には水が流れておらず歩けることが多い。しかしこの日は数日前から雨が続いていたため、越流していて渡れなかった。
現在下堰は表面がコンクリートで覆われており、上から見るだけでは当時の堰の様子を伺うことはできない。しかし、コンクリートで覆われているのは表面だけで、堰本体は石や杭で組まれた透過構造になっている。水は完全に止められているのではなく、石の間をぬってろ過され下流へと流れている。造られた当初は江戸時代(1752年)で、コンクリートやユンボなんてなく、青石と松杭、竹で作った蛇籠、グリ石等、周辺の山や地元にある自然素材を利用し、その運搬は舟や馬車、人の手や簡単な道具だけで造られた。
次は神宮入江川の吐き出し口を通ると、浄水場に向かってのびる太いパイプがあった。第十堰の上堰には徳島市の水道の水源となる井戸がいくつもあり、ここから吉野川の伏流水をもらっているのだ。
さぁ、いよいよ上堰へ。ここは昔の工法(青石と松杭)が残っている場所だ。現在、平成16年に相次いで上陸した台風によって壊れた箇所を補修している。
工事現場ということで、みなヘルメットを着用し、工事をしている方の説明を聞く。大きなクレーンやユンボがあり、水中ではドライスーツを着た潜水しさんがひとつひとつ石を並べていた。本来は青石と松杭でできていた堰だが、一部コンクリートを使って補修されているようだ。伝統的な工法が今でも残るこの上堰の姿が、一つ一つ変わっていく様子を見て、私はやりきれない気持ちになった。
最後は下堰へ戻り、
第十堰の歴史や昔の役割、
現在の役割について話を聞いた。
お堰で昼食をとった後は、グループに別れ、第十堰の役割について、探検で発見したこと、不思議に思ったことなどをまとめ、発表した。
第十堰の役割
1. 旧吉野川へ分流する
2. 潮止め
3. 徳島市の水源地(井戸)
そして、みんなの憩いの場や遊び場であり、
たくさんの生き物の住処であり、たくさんの役割を今も担っている。
250年間次世代へと引き継がれてきたこの第十堰が、これからも途切れることなくまた次の世代へとつながっていくことを強く願う。
by makiron
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